仕事に役立つ? まじないを信じない私がやってきた験担ぎ3選
こんにちは、社長の藤田です。現在はフリーライターとしてさまざまな記事を書いていますが、かつては新聞社に勤務し、記者と営業職に従事していました。
人生、とりわけ仕事においては理不尽の連続です。味方だと思っていた人がいつの間にか敵になっていたり、仕事で無理なミッションを命じられ、挙げ句の果てにはしごを外されたり、人格を踏みにじるような罵声を浴びせられたり…。
数々の理不尽を経験しているうちに、まじないや占いをすっかり信じなくなってしまいました。
それでもピュアでスレていなかった頃は、いくらか験担ぎをしていました。今回は子どもの頃から社会人に至るまで習慣としていたいくつかを紹介します。今振り返るとくだらないものばかりですが、戯れ言だと思ってお読みいただければ幸いです。
石のくぼみの神様を拝む
四国の実家で過ごしていた子ども時代の話です。
自宅近くの道路沿いに、大きな石垣がありました。自然石を積み上げたもので、石と石の間に深いすき間がありました。
小学生の頃、なぜだか分かりませんがそのすき間に神様がいると信じていました。
登校時、下校時、その他近所へ遊びに行くときなど、そこを通るたびに必ず「いつもいいことがありますように」と拝んでいました。拝まないととんでもない災厄が降りかかるような気がして、少なくとも中学卒業までは「お祈り」を欠かしたことはありません。
一種のアニミズムか
先日実家に帰った際、神様がいた石垣を久しぶりに訪問しました。上の写真は実際に神様を拝んでいた石垣のすき間です。
思っていたよりも石のすき間の奥行きは浅いなあと感じました。子どもの頃にいたはずの神様は、もう見えなくなっていました。
今思うと、木や石など、すべての物の中に魂が宿っていると信じる「アニミズム」だったんだろうと思います。原始時代は身近なものに霊的存在を見出していました。それを祈り続けているうちに、宗教が発展したとも言われています。
この験担ぎを続けていたならば、ひょっとしたら宗教家になっていたかもしれません。社長ではなく、教祖さまに。
余談ですが、実家近くの山中に、私たち地元の住民が「山の神さん」という小さな祠があります。人家から離れた場所で、山の斜面に鎮座している大きな石をまつっているのですが、これもアニミズムの一種と言えるでしょう。しかし今思えば、長年の風雨や土砂崩れで露出した単なる石なのかもしれません。
勤務先と逆の方向に出掛ける
以下二つは、新聞社で勤務していた頃に始めた験担ぎです。
仕事がうまくいかないときというのは誰にもあるかと思います。「ない」という人はすごく仕事ができるスーパーマンか、仕事をしていない怠け者のどちらかです。
私は不調なとき、出勤時に勤務先へまっすぐ向かうのではなく、勤務先と逆の方向へ一旦向かい、回り道をして出勤していました。もちろん遠回りをする分、いつもより早く自宅を出るので、通常より十分ほど前倒しの行動となります。
休みの日も、職場方面への行動はできるだけ避け、買い物なども逆方向の店で行うという徹底ぶりでした。
支局勤務で終わった「方違え」
これとよく似た行動として、平安時代に行われていた「方違え(かたたがえ)」という風習があります。陰陽道において、外出する際に目的地の方角が「凶」となっている場合、前夜に別の方角に行って宿泊し、そこから翌日あらためて目的地に向かっていたのです。
そういえば、高校の古典の授業か、あるいは日本史で習った記憶があります。浮き足だった心を落ち着かせるため、平安貴族の奇習を無意識に参考にしたのでしょう。
この験担ぎは、若手記者時代はよく行っていましたが、出先機関である支局勤務になったことをきっかけに止めてしまいました。なぜなら、支局には住居スペースが併設されており、仕事場で住むことになるので出勤の必要がないからです。
浄めの塩をまく
これも新聞記者をしていた頃の話です。事件・事故を取材する警察担当(この業界では「サツ担」と呼ぶ)をしていると、凄惨な現場に行くことがあります。
そんな人間の生死にかかわる取材から戻ってきたとき、私は自分の体や車に塩をまいて浄めることをしていました。葬式や法事から帰宅した際に行うようにです。
いつもと違う火事の取材
このお浄めを始めたのは、入社2年目のある取材がきっかけです。
深夜に山中の民家で火事が発生しました。当時勤務していた県庁所在地の都市から車で30分ほどかかる場所で、取材のためにひとり愛車を駆って現場に急行しました。
到着すると、黒い骨組みだけになった小さな家から白い煙が上がっていました。写真を撮りながら付近の人や消防団の人たちに聞き込みをしていると、一人で住んでいたおばあさんが焼死したことが分かりました。
死者を伴う火事現場へ行くのは特に珍しいことではないのですが、何かこの日は勝手が違いました。取材を終えて車で帰っていると、後ろから何かが付いてきているような、もっと言えば後部座席に何かがいるような気がしてなりませんでした。
帰り道は街灯一つない、曲がりくねった山道。震える手でハンドルを握り、結構なスピードで下りていきました。人里に入ったところでコンビニの明かりが見えたので、私はすぐさま駐車場に滑り込み、すがる思いで店内に入りました。何を買うでもなく売り場を眺めていると、一つの商品が私の目に飛び込んできました。
「アジシオ」
私はアジシオの瓶を手に取り会計を済ませると、すぐさまコンビニの駐車場で自分の身と車にふりかけました。食用の塩にお浄めの効果があるか定かではありませんが、そんなことには構っていられませんでした。
「おいおい、そんなことしたら車が錆びるぞ」
翌日、記事を書いて事の顛末を先輩に話すと、あきれた表情で笑われました。それでもそれ以降、私の車のダッシュボードにはアジシオが常備されるようになりました。
まとめ
その後、取材の現場から離れるにつれ、験担ぎは行わなくなりました。その後異動した営業職で人間の本性は何たるかを知り、「お化けや霊よりも、人間の方がよっぽど怖い」と思うようになりました。
歳を取ると信心深くなると言いますが、神仏への帰依も年々薄くなっているような気がします。お札や仏像が「ただの木」にしか見えないこともあります。
かつて行ってきた験担ぎ。今になって振り返ると、俺は何を無駄なことをやっていたのだろうかと思わず苦笑してしまいます。
それでも、験担ぎをすることでメンタルが少しでも平穏になるのなら、その「無駄なこと」に意味が出てくるのかもしれません。
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