自衛隊の銃乱射 元記者が思ったこと

2023年7月1日

 自衛官3人が銃の乱射で死傷するという事件が起こりました。場所は岐阜市の陸上自衛隊の射撃場です。

 「かく企画」社員の仮面ライターが、記者時代を振り返って、自衛隊取材を語ります。

自衛隊取材をしている元同僚からの電話

 私は記者時代のかなり長い期間、自衛隊の取材を担当していました。防衛省などの大臣や官僚を取材するのではなく、地域の自衛官の人たちに会っていました。

 そういう経験があるので、今回の事件は言葉で表現しきれないショックと悲しみを感じます。

 今回の事件が起こった時、私は仕事をしていました。すでにご存知の読者もいらっしゃると思いますが、今は記者ではありません。

 昼頃に事件現場を担当する取材チームのデスクから電話がありました。元同僚です。

 元同僚の話から困難な取材の状況が伝わってきました。

 記者の人員が大幅に減らされています。そもそも情報発信は東京の防衛省に一括されているので、現場で取材をしてもなかなか進捗が望めません。「地取り(聞き込み)」という取材を現場は担当するのですが、そもそも聞ける人に会うのが大変なのです。

 私が取材をしていた時でも、現場取材は困難でした。新聞社の編集幹部は、自分が記者だった時の感覚で「隊員の声を聞いてこい」と言うのですが、隊員への箝口令、教育は徹底しています。話を聞くことが出来なかった苦い記憶があります。

 どの取材分野でも、長くやっていると人脈だけではなくコツのようなものが身につきます。デスクの元同僚が電話をしてきたのは、自衛隊取材に慣れている人が彼のそばにいなかったからなのかもしれません。

私の自衛隊取材経歴

 私は記者になって2か所目の赴任地が海上自衛隊の基地がある町でした。

 地方総監部という大きな組織がある所で、月1回は海上自衛隊の幹部の人たちが定例記者会見をしていました。また、海外に海上自衛隊が派遣される時は、港で自衛官の家族に話を聞いたり、平時には基地内のイベントを取材したりしました。

 その後は、陸上自衛隊の取材担当もしました。一番記憶に残っているのは、広報担当をしていた人が海外に派遣されたことです。

 それまでは、記者と自衛官という関係でした。ところが、よく知っている人が、危険な外国に、しかも自衛隊(実質的には軍隊です)のメンバーとして派遣され、とても心配になりました。

 派遣数カ月後に年の瀬が訪れ、その方に年賀状を出しました。宛先は日本国内にある自衛隊の組織です。元旦は過ぎ去り、年賀状のことを完全に忘れていた頃、突然、その方から私の携帯電話に連絡がありました。

 「どこにいて、何をしているのかは言えません。ただ、任務で海外にいて元気にしています。年賀状をもらっていたのに連絡をせずに本当に申し訳ないです。年賀状のことを知ったのが遅く、不義理を許してください」

 その時、私は泣いた記憶があります。その義理堅さに心が動かされました。

現場の自衛官を取材する

 私が記者時代にも現場の自衛官に話を聞かなくてはいけないというタイミングがありました。ただ、自衛隊では取材に答えないようにと隊員に教育しています。

 今回の事件もそうですが、記者が自衛官の声、特に、幹部クラスではない自衛官の意見を取材しなければならない時は、往々にして悪いニュースの時です。地取り(聞き込み)は、ハードルが高い取材になります。

海上自衛隊

 海上自衛隊担当の時は、北朝鮮のミサイル発射などがありました。若い自衛官の意見を新聞社内で求められませんでしたが、個人的な受け止めを聞いてくるようにと言う指示が出ました。

 この時は、懇意にしている幹部自衛官が取材に答えてくれました。

 この方は、早朝から自衛隊施設の前で私が張り込みをしていたのを目にしたそうです。若い隊員がいい加減なことを言うくらいなら自分が取材に答えるということで、話をしてくれました。

 取材の中身は、あっさりした言葉だったのですが、イージス艦を出している組織の幹部からの話だったので、取材としてはOKでした。

陸上自衛隊

 陸上自衛隊の時は苦労しました。担当になって間もなかったので、上記のような「裏ワザ」が使えません。

 まずは、広報担当に取材依頼をしました。

 「今回の受け止めを現場の自衛官から聞かせて欲しい」

 自衛隊は大きな組織ですから、取材許可が出るまでに時間がかかります。結果としては、数日後に取材をさせてもらいました。ただ、広報担当の人が立ち会って、最初から決まった言葉を暗記していました。対応してもらってありがたかったのですが、新聞に載せられるような内容ではありませんでした。

 広報にお願いするという「表からの取材」をしながら、「ゲリラ戦」も始めました。

 陸上自衛隊の師団や駐屯地がある地域では、迷彩服を着た自衛官が仕事後に飲食店に入ります。野戦では目立たない迷彩服ですが、町中ではとても目立ちます。

 自衛官が飲食をしている店に入り、自分も飲食をします。支払いを済ませ、店外に出た所で声を掛けました。

 釣果はゼロでした。そもそも、この作戦は、一晩に2~3回くらいしか出来ません。こういう時の飲食費は自腹ですので、この作戦を連発すると財布が寂しくなります。

 2日目からは、飲食店取材は一晩に1回だけにしました。その代わりの作戦を発動しました。自衛隊施設から官舎がある道を地図で調べ、その道すがら迷彩服の人に声を掛けました。記憶が確かであれば、1日に3、4回くらい自衛官が勤務を終えて施設外に出てきます。そこを狙いました。この取材方法は3日目に隊員が組織に通報したため、取材中に注意されました。

 この時の陸上自衛隊への突撃取材は、一緒に取材をしていた別の人たちが飲食店で話を聞くことが出来たので、ミッションは終わりました。話を聞いてきたのは新人記者2人組でした。

 「取材はダメと言われてるんだよ」と隊員たちは言ったそうです。でも、実際には取材に答えてしまっていました。「取材に対して答えてはいけない」と上官から言われていたことの意味を、隊員がよく理解してなかったのです

 記者2人組というのも効果的だったかもしれません。警察の事件取材で聞き込みをする時、記者がペアを組むと良い結果が出ることがありました。

 2人なので良い間合いが作れたり、「良い警官・悪い警官」の様な効果が生まれたりします。また、地域をくまなく取材する時、取材する者のモチベーションは時間とともに下がってしまいます。2人で取材すると、メンタル的に持続する傾向があります。

 取材結果は、どうしても結果論になってしまいます。ただ、考えつく方法はすべてやってみるしかありません。

どうして現場の自衛官を取材するのか

 自衛隊は規律が厳しく、取材が困難な組織の一つです。規律が厳しいのは、軍事的組織である以上、必要なことだと思います。隊員が勝手に好きなことをしたら防衛は出来ません。

 そういう自衛隊を取材していると、現場で嫌がられました。それは理解できます。当然だと思っていましたし、今もそう思います。

 記者時代の私は、デスクなどの編集幹部に言われたから取材をしていたのが正直な気持ちです。

 一方で、夜中に迷彩服の人を探し求めていた時に考えたこともあります。

 取材の細かいあの手この手を考えながら、自分の胸の中でなんとなく記者っぽい思いが渦巻いた日がありました。

 事が起こった時にしか自衛官の言葉は新聞に載らない。

 防衛省の発表しか記事にならなかったらどうなるのか。

 もしくは、取材用の言葉を暗記した隊員の意見しか載らなかったどうなるのか。

 自分の知っている人が海外派遣された時に感じたあの気持ち。当の本人たちは何を思っているのか。

 そういうことが世の中に伝わらなくなったらどうなるのか。

 今回亡くなった方のご冥福をお祈りいたします。

新聞記者

Posted by かく企画