マスコミは人の不幸で飯を食う仕事か ―若手記者へのメッセージ―

2023年7月8日

 こんにちは、このブログを運営している「かく企画」で社長をしております藤田です。

 「学歴も会社も頼れない時代にどうやって生き延びるか」をテーマに始めたこのブログ。この文章の入稿作業をしている現在(2023年7月1日)、ちょうど半年を迎えることができました。これもひとえに読者の皆さま方から感想や叱咤激励をいただいたからこそ。共に執筆している仮面ライターともども、この場を借りまして厚くお礼を申し上げます。


 さて、新聞記者をクビになった2人組が書いているこのブログ。記者の仕事や新聞の読み方についてのコンテンツが多くあるためか、大きな事故や凄惨な事件が起きるとアクセス数が伸びる傾向にあります。

 それだけ多くの人が欲している情報と捉えることもできますが、犠牲者、被害者のことを考えると、何とも複雑な気持ちになります。

 そんなことを考えていたある日、若手記者時代に「マスコミは人の不幸で飯を食いやがる」と罵られたことを思い出しました。

 そこで今回は「マスコミは人の不幸で飯を食う仕事か」について、体験談を交えながら考えたいと思います。記者を首になった自称フリーライターの戯言ではありますが、使命と良心の狭間で悩んでいる若手記者、デスクやキャップの無理難題に辟易している新人記者の気晴らしになれば幸いです。

人間の良心と報道記者の使命・功名心

 「マスコミは人の不幸で飯を食う」

 現場を踏んだことがある記者なら、一度は浴びせられたことのある言葉かと思います。

 報道記者は良いことばかりを取材するわけではありません。事件や事故、政治家や企業の不祥事…。悪い現場には必ずと言っていいほど現れます。警察官のように事件を解決するわけでもなく、消防士のように被災者を救助することもありませんから、ある意味後ろ指を指されるのは当然のことです。

 私も記者をしていた頃、「人の不幸で飯を食いやがって」という言葉を浴びせられました。

事件現場で 落選候補の選挙事務所で

 事件現場では、インターホンを押した家の住人たちから言われました。

 大きな事件が起きると、記者たちは現場近くの住民に警察よろしく聞き込みを行います。物音を聞いていないか、警察は捜査にやってきたか、被害者あるいは加害者の人物像は……など。

 他の新聞やテレビよりもできるだけ詳しい情報を報道しようと、根掘り葉掘り聞き出します。住民からすれば平穏な生活を邪魔されているのですから、腹を立てて当然です。

 ある現場で私と手分けして聞き込みをしていた先輩は、罵声だけでなく、ひしゃくの水も掛けられていました。

 また選挙の落選候補の事務所では、いきり立った支援者に罵声を浴びせられました。

 落選した本人は「私の不徳のいたすところ…」としおらしくあいさつする場合がほとんどですが、選挙運動を支えている支持者にはいろんな人がおり、中には感情的になる人も。「テレビを消せ」「カメラを外に出せ」といった怒鳴り声が飛び交う事務所で、「人の不幸で飯を食いやがって」と詰め寄られたのです。

何より心の痛む災害現場

 何よりも心が痛むのは、災害現場の取材でした。

 記者2年目の出来事です。10月下旬に季節外れの大型台風が日本列島を襲い、各地で川の氾濫や土砂災害を引き起こしたことがありました。

 このとき私は、土石流で家ごと流されて老夫婦が亡くなった現場に向かいました。川は削られ、岩肌はむき出しになり、穏やかな景色は一変していました。台風一過の強い日差しを浴びながら、土砂がうずたかく積もった黄色い道を1時間ほど歩いていくと、家があったはずの場所で、初老の男性が立ちすくんでいました。

 川に流された老夫婦の息子だと分かった瞬間、傷心の遺族に話を聞くという後ろめたさよりも、記者としての使命と功名心が勝ってしまいました。私はできうる限りの配慮をしつつも、話を聞き出そうとしました。

 その人は気丈にも受け答えに応じてくれました。こちらからの質問に対し、か細い声ながらも答えてくれました。

 取材が始まってから3分ほど、生前の老夫婦の人となりを質問したところ、こみ上げるものを抑えられなかったのか、その男性は突然大声で鳴き出してしまいました。

 「人の不幸で飯を食いやがって」とは言われませんでした。しかし、自分の行動は確かに人の不幸で飯を食うことそのものでした。

 自分の良心に従うべきだったか、報道記者の使命を全うすべきか--。地面に突っ伏し慟哭する男性を見下ろしながら、答えの出ない自問自答を繰り返すばかりでした。

被災者の口から出た「この惨状を撮れ!」

 一方で、別の災害現場で意外な言葉を浴びせかけられることがありました。台風により、ある都市の海岸べりの地域が高潮の被害を受けたときのことです。

 集落が浸かっているとの一報を受け、私は現場に向かいました。人間のひざ当たりの高さまで水が上がっており、住宅は完全に浸水。道路も見えなくなっていました。

 私は辺り一面水浸しの様子を写真に収めていました。

 十数枚ほどシャッターを切ったとき「おい!」という激しい怒声が耳に入ってきました。見ると、中年男性が水をかき分けながらこちらへ向かってきます。

 白髪交じりの無精ひげを口元にまぶし、目はつり上がったすごい形相。明らかに「人の不幸で飯を食いやがって」と言われるパターンです。

 「おい、カメラ持っとるそこの兄ぃちゃんや」

 私はすぐに、カメラだけは守ろうと身を構えました。いや、最悪カメラは壊されても仕方がない。それよりも記録媒体(当時はコンパクトフラッシュでした)だけは奪われてはならない。

 防衛策を頭の中で巡らせていたその時、男性から全く予想外の言葉が発せられました。

 「この惨状をちゃんと撮っといてくれ。わしらがどんだけひどい目に遭っているか、あんたのカメラで記録して、世間に訴えてくれ。分かったな」

 その言葉に、私ははっとしました。「そうか、やっぱり取材しないといけないのだな」

結局悩みながら取材をするしかない

 日々事件や事故などの現場を駆けずり回る若手記者の皆さんは、記者としての使命と自分自身の良心にさいなまれる取材を経験することが多くあると思います。そんなことを考える余裕のない駆け出しの若手記者の方々は、「現場の声を取れ」「写真抑えろ」などとデスクやキャップからのハードな要求にやりきれない思いをしていることでしょう。

 しかし結論を言うと、事実を現在と後世に伝える使命を帯びたマスコミである以上、事件現場や事故現場がある限り取材をするしかないと思います。世間の考えとはずれているかもしれませんが、「人の不幸で飯を食いやがって」との罵詈を受けながら、聞き込みや写真撮影をするしかありません。

 ただその中で、常に「取材相手はどう思うだろうか」と思いをはせることは必要です。

 個人のプライバシーに対する意識が希薄だった戦後間もない頃、警察が逮捕をする前に、マスコミが犯人を断定し報道することが普通に行われてきました。

 一方で21世紀に入った現在、メディアスクラム(集団的過熱取材)に対する世間の目は厳しくなっています。

 時代により変わっていく報道倫理の枠組みの範囲内で、どこまで踏み込むべきか常に自問自答しながら取材をしていくしかないのではないでしょうか。悩みややりきれなさを抱えながら現場を踏むうちに、節度を保ちつつも報道の使命を果たせるようになり、記事にも深みが出るはずです。

 過去幾千もの先輩記者たちも悩みながら現場に足を運んできました。無責任な言い方かもしれませんが、悩みながら成長するしかないと思います。

新聞記者

Posted by かく企画