なぜ人々は釈明会見で天地神明に誓うのか?

 こんにちは、社長の藤田です。

 「天地神明に誓って知らなかった」

 中古車販売大手「ビッグモーター」で発覚した自動車保険の水増し請求などの不祥事について、当時社長を務めていた兼重宏行氏は記者会見このように述べ、自らをはじめとした経営陣の関与を否定しました。

 実際に不正に関わっていたかどうかは別として、この会見を見た多くの人は「ウソをつけ」と思ったのではないでしょうか?

 この「天地神明」という言葉、疑惑の当事者が身の潔白を主張する際によく使う言葉ですが、聞けば聞くほどうさんくさく感じます。ここまで字面と逆の印象を抱かせる言葉は、他に例をみません。

 それにもかかわらず、なぜこの言葉が使われるのでしょうか?使われ続けた歴史をひもときながら、私なりに理由を探りたいと思います。

天地神明は「あらゆる神様」という意味

 申し遅れましたが、この言葉「てんちしんめい」と読みます。

 意味について辞書で調べたところ、このように書いていました。

てんちしんめい【天地神明】

 天地の神々。全ての神々。

三省堂『大辞林』

 あまりに素っ気ないので、もう少し詳説します。

 「天地」とは、文字通り天と地ですが、「天地創造」というように、世界とか宇宙を含むこの世のあらゆるものを意味します。

 「神」は言うまでもなく神様のこと。また「明」には明かりとか明るいという意味のほかに、「神」「まつられた死者」などの意味を持ちます。

 つまり、この世に存在する(とされる)あらゆる神様、という意味になるのです。「八百万の神」を信奉する日本社会ならではの言葉だと思いませんか。

「五箇条の御誓文」で使われていた

 そんな天地神明という言葉ですが、れっきとした日本語の四文字熟語であるだけに、古くから使われてきたと思われます。

 最も有名な用例は、1868(明治元)年3月14日に発表された「五箇条の御誓文」。大政奉還後の混沌とした情勢を鎮めるため、明治天皇が公卿や諸侯に対し、明治政府の基本方針を五つの箇条書きの形で記したものです。

 【公卿・諸侯必読】天皇陛下が記した明治政府の基本方針5選

 今風のブログタイトルっぽく言うとこんな感じでしょうか。

 難解なので、現代かな表記の書き下し文にて引用します。

一、広く会議を興し万機*1公論*2に決すべし

一、上下心を一にして盛んに経綸*3を行うべし

一、官武一途庶民に至るまでおのおのその志を遂げ

   人心をして倦ま*4ざらしめんことを要す

一、旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし

一、智識を世界に求め大いに皇基*5を振起すべし

*1=政治のこと。*2=議論、意見。*3=国家を治めること。*4=倦む…嫌になる。*5=天皇が統治する国家の基礎

 さらに、この五つの箇条書きの後に「天に誓ってこの基本方針を定める」という意味で、次の文章が付けられています。

我が国未曾有の変革をなさんとし

朕躬をもって*6衆に先んじ天地神明に誓い

大いにこの国是を定め万民保全の道を立たんとす

衆*7またこの旨趣*8に基づき協心努力せよ

*6=朕…天皇の一人称、躬…自ら。*7=みなさん。*8=趣旨

 明治天皇が天地神明、つまり八百万の神に誓約するという形を取ることで、公家や旧大名らに対して政治運営への協力を求め、さらには新政府への支持を集める狙いがあったとされています。

会見で使われる例

 時代の変革期を彩った天地神明という言葉。時は流れ、釈明会見での嘘くさい言葉に成り下がってしまいました。起草者も、発表した明治天皇も、さぞお嘆きに違いありません。

佐村河内守氏の会見

 ビッグモーター以外で知られているのは、作曲家の佐村河内守氏による会見です。「耳が聞こえない作曲家」を前面に出して活動しながら、ゴーストライターの新垣隆氏に曲を制作させており、その新垣氏が暴露したことでスキャンダルとなりました。

 会見で佐村河内氏は「本日の会見では天地神明に誓って、うそ偽りなく真実をお話しいたします」と述べていました。ゴーストライターによる制作や、全聾が嘘であったことは認めたものの、新垣氏らを舌鋒鋭く批判したこともあり、この会見も「弁明は本当なのか」と疑念を持たれることとなりました。

政治家の利用

 それ以外にも、政治家が身の潔白を訴える際によく使われます。

 不透明な金の動きをはじめ、セクハラ、パワハラ、不倫など、さまざまな醜聞で「天地神明に誓って…」と聞きます。そして多くの市民は「本当はクロなんでしょ」と疑いの目で見ていることでしょう。

 特に、地方議会などで“重鎮”とされるベテラン男性議員がよく使っているイメージがあります。そもそも日本は女性政治家が格段に少ないので、男性が使うのはある意味必定なのかもしれません。

多神教で宗教意識が低いから天地神明を使う?

 このほとんど信用度のない「天地神明」という言葉は、なぜいまだに数多くの釈明会見で使われるのでしょうか。

 私は、冒頭で少し述べた「八百万の神」を信奉する日本社会が深く関係しているのではないかと思います。

 仮に、唯一神アッラーを信奉するムスリムの場合、「天地神明に誓って…」という言葉は使わないと思います。言うことで神を汚すことになりますし、もし嘘や間違いだった場合シャレでは済まず、最悪の場合死が待っていることでしょう。

 かたや多神教で、宗教への意識が低い現代の日本では、神様に対する向き合い方がムスリムと比べて真摯ではありません。「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉が何より象徴的で、神様はたくさんいるんだから、嘘をついてある神様を裏切ったとしても、他にたくさんいる神様が許してくれるだろう、なんて考えています。

 また、四文字熟語である点も大きいと思います。簡単な言葉を使うより、何となくもっともらしく感じるという真理が働いているのではないでしょうか。(実際そんなことはないのですが)

 神様がたくさんいて、神様を軽く扱う現代日本人だからこそ、「天地神明」というもっともらしい言葉を軽々しく使っているのではないでしょうか。

おわりに

 今回は天地神明という言葉が釈明会見で使われ続ける理由について、歴史をひもときながら私なりに理由を探りました。

 会見する側は、言葉や言動で我が身を飾り、取材する記者やニュースの視聴者・読者に好印象を持たれようとします。中には失敗して、より疑念の目で見られることもあります。

 見栄えの良い言葉に踊らされず、冷静に真実を見抜いて分析する力をわれわれも持ちたいものです。

新聞記者

Posted by かく企画