ハンセン病見学クルーズに参加して ―①差別と偏見に満ちた隔離政策を伝える遺構―

2023年6月7日

 こんにちは、社長の藤田です。2019年に地方新聞社を退職し、フリーライターとして活動しています。

 「学歴も会社も頼れない時代にどうやって生き延びるか」をテーマに、2023年1月からブログをスタート。仮面ライターさんとともに、転職、独立・フリーランス、文章スキル、取材手法について書いてきました。

 6月は少し趣向を変えまして、ハンセン病に対する理解を深める「見学クルーズ」に参加したときの体験記を毎週金曜に4回にわたって掲載したいと思います。

 「ハンセン病」は、皮膚や末梢神経が冒される感染症の一種。現在は治療法が確立され完治する病気ですが、かつては顔や手足に後遺症が残っていたため歴史的に患者たちが差別を受けてきました。患者を守るはずの国ですら、誤った考えに基づいて長きにわたり患者たちの隔離政策を続けてきたのです。

 この体験記は、失業中の2年前に別のブログ(note)に書いた文章を再構成したものです。見学クルーズは、岡山県の離島・長島にある国立ハンセン病療養所・長島愛生園に船へ行き、資料館や園内を見学するといったものでした。

 今回は、園内で見学した遺構について説明します。差別と偏見にまみれた隔離政策の様子を今に伝える数々の“時代の証人”を紹介します。

社会や家族との別れの場 ― 収容桟橋 ―

 海の中に落ちてしまったコンクリート製の橋桁が、長い年月の経過を物語っています。

 これは「収容桟橋」の跡。全国各地から愛生園に連れてこられたハンセン病患者は、その多くがこの桟橋から上陸していました。

 患者たちはまず、自宅の最寄り駅から列車で岡山市まで連れてこられました。患者を乗せた病客車は、皮肉を込めて「お召し列車」と呼ばれていました。病客車は徹底して消毒されていたため、当時の国民の恐怖心をあおり、根強い差別意識を植え付けてしまったのです。

 岡山からはトラックで長島対岸の虫明(むしあげ)地区まで搬送されました。列車からトラックへの乗り換えは、人目の付かない深夜に行われていたとのこと。そして、虫明からは船に乗せられ、この収容桟橋から上陸していました。

 搬送には、患者の家族が付き添うこともありましたが、入ることができるのはこの桟橋まで。入所者にとっては、ここが社会や家族との別れの場でした。幼い患者の中には、親から「旅行に行こう」と言われて収容された人も。この橋で親兄弟とのつながりを断たれ、中にはだまされたと親を恨み続ける人もいました。

 桟橋が収容に使われなくなってからは、船の係留場所になっていたそうですが、平成に入って老朽化のために崩れてしまいました。誤った隔離政策を象徴する遺構だけに、保存が叫ばれていますが、復元したうえで保存をするのか、それとも今の状態のまま後世に伝えていくのか、方法を巡って意見が分かれているということでした。

患者の体や持ち物を容赦なく消毒 ― 回春寮 ―

 入所するとまず収容されたのが、この「回春寮」と言われる建物です。当時の様子をよく残している外観です。

 患者はここで、所有物をすべて差し出さなくてはなりませんでした。そしてそれらは容赦なく消毒されました。

 食べ物は完全に没収。ラジオなどの電化製品も消毒に掛けられたため、手元に戻っても壊れて使い物になりませんでした。戦後すぐくらいまでは現金も取り上げられ、園内のみで通用する硬貨に換えられました。社会で使える国内通貨を手元に持たせないことで、逃亡できなくする狙いがありました。

 上の写真は回春寮の中にある消毒風呂の跡。クレゾールに満たされた風呂の中に、患者たちは否応なく入れられ、消毒されていきました。

 そして、患者たちは寮内の大広間のベッドに寝かされ、そこで1週間ほど滞在させられました。その間に、園での生活の場となる入寮先を決められていました。

逃亡者を収監し園長が懲戒 ― 監房跡 ―

 園内には、牢獄にあたる監房もありました。さきほどの収容桟橋から小さな入り江を隔てた場所に建てられており、愛生園に連れてこられた患者を無言で威圧していました。

 監房に入れられた入所者の中で一番多かったのが、やはり逃亡を図った人。1週間から10日の間、無機質のコンクリートで囲まれた独房に入れられ、1日3食の食事も2食に減らされました。逃亡の他にも、密造酒の製造、花札などの賭博、暴力沙汰で入れられる人がいたということです。

 入所者の収監について決定権を握っていたのは、園長でした。園内では懲戒権が与えられ、園長の一存で投獄ができていました。

 監房は戦後も使われ、1953年に廃止されました。道路の建設などで大部分は土砂に埋められており、いまは土砂の重みでたわんだ壁のみを残しています。

 監房があった当時の写真です。現地の案内板より。

 現在の監房跡を上から見た写真。土砂に埋もれています。

死してなお故郷に帰れず ― 納骨堂 ―

 ハンセン病に対する偏見や差別の目は、入所者のみならず家族にまで及びました。そのため、かつては入所者が亡くなった際、遺族が遺骨を引き取ることも難しかったのです。

 そのため、亡くなってなお、故郷に帰ることがかなわない人も大勢いました。

 この納骨堂には、そういった境遇の入所者の遺骨が納められています。

 現在納められている遺骨は約3700柱。そして、その実に半数は、本名ではなく園内での通名で眠っています。家族に対する世間の目をはばかり、故郷へ帰れないばかりか、死んでもなお本名を名乗ることができないのです。

 現在の納骨堂は2002年に再建されたもので、初代の納骨堂は1934年に造られました。当時は火葬場も園内にあり、入所者の遺体を荼毘に付していました。現在は岡山市内の斎場を利用しているとのことです。


 次回は、長島愛生園全体について触れた上で、園内にある歴史館の展示物を紹介してかつての入所者の生活を垣間見たいと思います。

自己紹介

Posted by かく企画